JLPT N1 · Reading
Practice set
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利便性の追求それ自体を、私は否定するつもりはない。問題は、便利さがもたらす恩恵ばかりが語られ、その裏で私たちが手放しているものが、ほとんど意識にのぼらない点にある。かつては地図を片手に道に迷いながら街を歩いた。その回り道の中でこそ、思いがけない店や景色に出会うこともあった。今や目的地までの最短経路が瞬時に示され、私たちは迷うという経験を失いつつある。効率化とは、余分なものを削ぎ落とす営みにほかならない。だが、余分とされたものの中に、実は人生の豊かさが宿っていたとしたら、私たちはあまりに安易な取引をしているのではないか。
近年の小説評において、「読みやすい」という言葉はほとんど無条件の賛辞として流通している。確かに、読者を突き放すような難解さを衒学として退ける態度には、一理あろう。しかし、文学の価値がもっぱら平明さによって測られるようになれば、言葉が読者に強いる立ち止まりや、意味の判じかねる沈黙といったものは、ことごとく欠陥として処理されてしまう。読み手をつまずかせる一文は、必ずしも作者の技量不足の証ではない。むしろ、そのつまずきこそが、読者を既知の世界の外へ連れ出す装置たりうるのだ。滑らかに消費される言葉ばかりを求めることは、文学から思考の契機を奪うに等しい。
国内総生産、すなわちGDPは、一国の経済活動の規模を測る指標として広く用いられてきた。だが、この数値がそのまま人々の幸福を表すかのように語られることには、慎重でありたい。GDPは市場で取引される財やサービスの総額を集計するにすぎず、そこには家事や育児といった無償の労働も、自然環境の劣化がもたらす損失も、原理的に反映されない。極端に言えば、災害が起きて復旧のための支出がかさめば、GDPはむしろ増大する。指標が悪いのではない。指標が本来測れないものまで測れると錯覚し、それを唯一の羅針盤としてしまう姿勢こそが問われるべきなのだ。
試験対策として要点だけを覚え込む学習が、効率のよいものとして重んじられる風潮がある。短期間で成果を出す上では、確かに有効な方法だろう。しかし、答えを暗記するだけの学びは、問いそのものを立てる力を育てにくい。なぜそうなるのかを自分の頭で考え、時に遠回りをしながら理解に至る過程を経てこそ、知識は応用のきくものになる。教育の目的が目先の点数にあるのか、それとも生涯にわたって考え続ける土台を築くことにあるのか。私たちは今一度、その原点に立ち返る必要があるのではないか。
私たちは言葉で考える。それゆえ、母語が備える語彙や文法の枠組みが、思考のあり方をあらかじめ方向づけているという見方には、一定の説得力がある。ある感情を指す言葉を持たない文化では、その感情そのものが希薄になる、といった議論もしばしば持ち出される。とはいえ、私はこの種の主張を鵜呑みにすることには慎重でありたい。もし言語が思考を完全に規定するのなら、翻訳という営みも、既存の語では言い表せなかったものを新たに名づける営みも、およそ成り立たなくなってしまう。言葉が思考の器であることは疑いない。だが、器は中身によって作り変えられもするのだ。
科学の成果を一般に伝える際、専門家はしばしば難しい選択を迫られる。厳密であろうとすれば説明は複雑になり、聴衆を置き去りにしかねない。逆に、わかりやすさを優先して思い切った単純化を施せば、要点は伝わっても、しばしば誤解の種を蒔くことになる。「これはあくまで例外のない法則だ」と言い切ってしまう方が聞き手には心地よいが、科学の営みは本来、留保と例外に満ちている。求められているのは、正確さを犠牲にしない範囲で、どこまで橋を架けられるかという地道な工夫だろう。伝わらなければ意味がない。だが、誤って伝わるくらいなら、伝わらない方がましな場合すらあるのだ。
大都市の魅力の一つは、その匿名性にあると言われる。誰も自分を知らない群衆の中では、人は生まれ育った土地のしがらみから解き放たれ、望む自分を演じ直すことができる。この自由が、地方を出た多くの若者を都市へと引き寄せてきたことは間違いない。もっとも、この匿名性は諸刃の剣でもある。誰からも見られていないという解放感は、裏を返せば、誰にも気にかけられていないという孤独と表裏一体だ。倒れても声をかけられず、孤立の中で朽ちていく。都市が与える自由を享受するには、その自由がはらむ冷たさをも引き受ける覚悟がいる。
限られた時間で多くの本を読むための速読術が、しきりに喧伝されている。情報を効率よく取り込むという目的においては、それも一つの技術だろう。だが、そもそも本を読むという行為の値打ちは、どれだけ多くの情報を仕入れたかだけにあるのだろうか。一つの段落の前で立ち止まり、著者の言葉を反芻し、時には本を閉じて物思いにふける。そうした一見無駄に見える時間の中でこそ、読んだ内容は自分の血肉となっていく。冊数を競うように読み飛ばされた本は、読んだという記録だけを残して、記憶からはたちまち滑り落ちていくのではないか。
環境問題を前にして、一人ひとりの心がけが大切だとよく言われる。買い物袋を持参し、電気をこまめに消す。そうした日々の努力に意味がないとは思わない。しかし、個人の善意にばかり責任を負わせる論調には、どこか危うさを感じる。使い捨てを前提とした商品があふれ、車がなければ暮らせない街のつくりがそのままであれば、個人にできることには限りがある。求められているのは、努力しなくても自然と環境に優しい選択ができるような、社会の仕組みそのものの作り替えではないだろうか。
現代美術は難解だ、という嘆きをしばしば耳にする。一目見て何を表しているかわからない作品を前に、鑑賞者が置き去りにされたと感じるのも無理はない。だが、難解さのすべてを作品の欠陥として片付けるのは早計だろう。世界の見え方をずらし、慣れ親しんだ物の見方を問い直させることこそ、芸術に固有の働きの一つだからだ。もっとも、私は難解でありさえすれば価値があるとまで言うつもりはない。中身の空疎さを、もったいぶった意味ありげな体裁で覆い隠しているだけの作品も、確かに存在する。問われるべきは、その難解さが鑑賞者に思考を促すものか、それとも単なる韜晦にすぎないのか、という一点である。
人工知能が下す判断の精度は、多くの領域で人間のそれを上回りつつある。ならば、面倒で責任も重い判断は機械に委ねてしまえばよい、という声が出るのも自然だろう。しかし、ここで見落とされがちなのは、判断とは単に正解を選び取ることではなく、その結果を引き受ける主体を伴う営みだという事実である。機械が選んだ結果、誰かが不利益を被ったとき、その責めを機械に負わせることはできない。かといって、ただ機械の答えに従っただけの人間に、どこまで責任を問えるのかも判然としない。効率のよい判断を手に入れる代わりに、私たちは責任の引き受け手を曖昧にしてしまう。その代償は、精度の向上という利得によって容易に相殺されるものではない。
記録は正確さにおいて記憶に勝る。日付も数字も、書き留められた文書は淡々とそれを保存し、人の思い込みによって歪められることがない。だからといって、記録が記憶に取って代われるわけではない。記録が伝えるのは「何が起きたか」であって、それが人々にとって「何を意味したか」ではないからだ。ある出来事が世代を超えて語り継がれるとき、そこには数字には還元されない痛みや誇りが託されている。記録が骨格だとすれば、記憶はそこに通う血だと言えよう。骨格だけでは、歴史は生きた姿を取り戻さない。
誰にでも挑戦の機会が開かれている——「機会の平等」は、公正な社会を語る上で欠かせない理念である。結果の平等が努力する意欲を削ぐのに対し、機会の平等は各人の努力を正当に報いる、というわけだ。この理念そのものに異を唱えるつもりはない。ただ、留意すべきは、機会が形式上開かれていることと、それを実際につかめることとの間には、しばしば大きな隔たりがあるという点だ。同じ試験を受ける権利があっても、幼少期に十分な教育を受けられなかった者と、あらゆる支援に恵まれて育った者とでは、出発点があまりに違う。門が開かれていると告げるだけで、そこにたどり着くための道を整えなければ、機会の平等は掛け声に終わりかねない。
野の草花の名前を覚えることは、自然に親しむ第一歩だと言われる。名を知れば、それまで背景に溶け込んでいた草の一本一本が、輪郭を持って立ち上がってくる。名づけとは、世界を分節し、認識の網の目を細かくしていく営みなのだ。とはいえ、名を得たとたん、その花は「知っているもの」の箱に収められ、かえって私たちの注意を引かなくなるという逆説もある。名づけは対象を見えやすくすると同時に、見た気にさせて見ることをやめさせもする。名を知りつつ、なお初めて出会ったかのように眺める。そんなまなざしを保つことは、思いのほか難しい。
報道は中立であるべきだ、という要請は、一見すると反論の余地がない正論に思える。だが、そもそも完全な中立などありうるのか。何を報じ、何を報じないか。同じ出来事のどの側面に光を当てるか。その選択の一つひとつに、すでに一定の視点が織り込まれている。私が疑わしく思うのは、中立を掲げること自体ではなく、あたかも自らが無色透明な鏡であるかのように振る舞う姿勢の方だ。立場からまったく自由な報道が不可能である以上、誠実さとはむしろ、自らがどこに立って物を見ているのかを隠さず示すことにあるのではないか。中立を装う報道より、立場を明かした上で偏りを吟味に委ねる報道の方が、よほど信頼に足る。
手帳がびっしりと予定で埋まっていることを、私たちはどこかで誇りに感じてはいないだろうか。忙しいということが、そのまま有能さや必要とされていることの証であるかのように。だが、立ち止まって考えたい。埋まった時間の一つひとつは、本当に自分が選び取ったものだろうか。断る勇気がないまま引き受けた用事や、惰性で続けている付き合いが、いつのまにか生活を占領してはいないか。忙しさそれ自体が悪いのではない。何に時間を費やすかを自分で決めているという手応えを欠いたまま、ただ流されて忙しいことこそ、警戒すべき状態なのだ。